2013年04月15日

宗家墓所(3)・・・・社稷を祀る

 門中の清明ではご先祖より先に墓の右側にある墓室を拝みます。宗家墓以外でも、そこには何もないのに、やはり右隅から拝みます。何故でしょうか。
今年の清明祭に東京在住の宗家から六男の章明さんが来られ、墓所に関わる貴重なお話を聞けたので紹介します。

  祖父母や両親から伝え聞かされたのは、祖父明良(十七世)が明治41年に若狭の拝領墓から現在の場所に移した。墓地の大きさは間口五間四尺、奥行十七間(10.2m×30.6m)と家譜に記している。ご覧のように周囲を石垣で囲み、ヒンプンがあって 左右には大きなクワディサーの木が植えていた。

 (追記) クワディサーの木は2本あり、墓所の入り口、ヒンプンより手前の左右に植えられていた。植えたのは墓を移した明良の兄、明徳 で明治末から大正の事と思われる。タンメーの植えた木だから登って遊んではいけないと教えられたと、曾孫にあたる義侑さんは話している。
水平に大きな枝を広げ清明祭などでは日蔭を作っていたが老木となり祖国復帰の頃に切り倒された。切り株がその大きさを伝えていたが、今ではそれも朽ちてしまった。


 破風型の墓は3つに分かれ、中央の墓室には顕(四世)からの先祖が眠っている。
 向かって右側の黒っぽい墓室には土地の神、「社稷(しゃしょく)」が祀られている。「社稷」とは周の時代頃から中国の天子・諸侯が国の守り神として祀ってきた土地の神「社」と五穀の神「稷」である。各地域でも「社稷」祀ってきた。その神が墓の右側にいるのである。国家をも意味する「社稷」であるから先祖より先に拝礼し、その後に様々な祭礼を始めた。その墓室には何が納められているか見たものがおらず何も聞かされていない。
 向って左側は戦後の一時期、分家である明佐の祖霊を仮安置していたが、所沢へ移したので空っぽである。



宗家墓所(3)・・・・社稷を祀る

 拝礼の順序はまず右側の「社稷」に、明や清の作法である三跪九叩頭のしきたりでお線香をあげた。その後中央の墓室に眠るご先祖へ、同じく三跪九叩頭のしきたりでお線香をあげた。幼い頃は回数を数えられないので、大人の衣擦れの音を頼りに終わるタイミングを判断した。自分も高齢になったので今日は一跪一叩頭に省略させてもらった。

「社稷」が祀られていることがご先祖様より先に拝む理由なのです。

清明祭終了後の懇親会でも話題の中心は「墓」や「祭祀」の事で、参加者から次のような話がありました。
 我が家の墓の右側には何も無いが「ヒジャイバラ(左側)」と呼び、そこには土地の神が存在するとして、まずここを拝み墓地に立ち入る事を報告してから、ご先祖を拝む。呼び方は墓の方から見て左の方向を意味しているようだ。
 宗家の墓のヒンプンは3段積みになっており、上下の石には凹凸の加工がされ、その噛み合せでヒンプンが立っている。戦時中には爆風で倒れ、弾痕も残っている。墓地を囲う石垣は蟻の通る隙間すらなく石を積み上げた高度な造りになっている。

宗家墓所(3)・・・・社稷を祀る

投稿者:久茂地のタンメー




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Posted by たんめー at 01:20│Comments(0)久米梁氏呉江会
 
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